終戦前、行徳にも空襲があったことを小さい頃からよく祖母に聞かされていた。ところが、その中に記録のない空襲があることを、平成27年8月13日の東京新聞の記事(【千葉から語り継ぐ戦争】「7月13日にも行徳空襲」体験者の証言で判明)から初めて知ったのである。

 その記事によると、6年前に行徳公民館で戦争体験を聴くつどい「行徳にも空襲があった」というイベントが開催された。行徳の空襲は、昭和19年12月15日と翌昭和20年1月27日の2回は記録されていたが、3回目の記録はなかった。当時を知る3人の方々の証言から今の本塩で「約30人が亡くなった」という空襲の日が、戦後70年たって、その日にちが終戦直前の昭和20年7月13日と特定されたというある意味でショッキングな記事であった。

 新聞記事を読んだ後、空襲のことが知りたいとずっと気になっていた。イベントに参加された3人の方々は、本塩の法善寺ご住職河本和磨さんと清水久男さん、本行徳3丁目にお住いの田中愛子さんであった。河本さんはすでに亡くなられており、他の方々に話を聞くことができた。

近所に住む清水さんには偶然お会いし、当時の様子を伺えた。本塩には森川青果市場があったが、そこは軍馬の蹄鉄の取り換え場所になっていたため、兵隊が軍馬に乗って通っていくのをよく見ていたそうだ。清水さんはちょうど小学校2年生から3年生の頃で、子供ながらにかっこいいなあと思っていたそうである。本塩は兵隊がたくさん歩いていたところだと教えてくれた。

また、清水さんが通っていた江戸川の近くにある旧行徳小学校は、兵隊が駐屯していた。清水さんたち小学3年生だけが小学校に残り、その他の学年の児童たちは近くのお寺に分散して勉強した。しかし、空襲警報が鳴るとすぐ家に帰ることになっていたので、勉強という勉強はほとんどできなくなっていた。

 雨の降る7月13日の午前3時頃、B29が1機だけが飛んできて警戒警報が鳴ったが、虫の知らせか、清水さんはお母さんと妹さんと防空壕に避難した。その直後、家の近くに爆弾が落ちたのだという。そして、当時7歳だった田中さんによると、本塩から来ていた元お手伝いさんは、この爆弾で子供7人を一度に亡くしたと聞いていた。清水さんは、この母親が抱いていた赤ちゃんも爆風で吹き飛ばされたことを知っている。このときは、本塩の一区画にずっと爆弾が落ちたのだ。亡くなった人々のご遺体を兵隊が法善寺に運んでくれたそうだ。この日が命日ということで、昭和20年7月13日が記録のない空襲の日であることが判明した。

また、隣の本家の秋本勝次郎さんにも空襲について聞いてみた。今は93歳になるが当時は17歳で、蘇我の飛行機を作る日立航空機株式会社の軍需工場に行っていた。それで行徳の空襲にはあっていないが、こちらの方面から来た人から「行徳に爆弾が落ちて焼野原だそうだ」と聞いて驚き、急いで本八幡駅まで電車で来て、歩いて行徳まで帰って来たが、家があったのでほっとしたと話してくれた。

話は前年に戻るが田中さんの話によると、行徳の上空に、B29の米軍機が頻繁に空を飛ぶようになったのは、昭和19年11月頃からだった。東京の偵察のため、ゴーゴーと連隊が通って行き、そのたびに空襲警報がなり、田中さんは、お母さんとお姉さんと3人で防空壕に入っていた。しかし、11月30日空襲が怖いと言って、防空壕に入れず動けなくなったお姉さんは母屋に残り、お母さんは何度も母屋と防空壕を行き来していたが、お姉さんは心臓麻痺で亡くなった。18歳だった。お姉さんもまた戦争の犠牲者であると言えよう。幼い田中さんが戦争というものを意識した最初だったと言う。家族はどんなに無念の思いであったか、胸が締め付けられる思いがした。

そして、実は我が家も空襲を受けていたのである。私の小さい頃の家の屋根はトタンだった。爆風で瓦が飛ばされたから、トタンなのだと聞いている。この時、祖父は本家に、祖母と父、そして叔父たちは曾祖母の実家にお世話になっていたことも知ったのである。

 私は、この空襲をずっと7月13日だと思い込んでいたが、実は前年の12月15日の昼間だったことを清水さんが教えてくれた。行徳一丁目の郵便局の周りが何軒も空襲にあっていた。その時の爆弾が本塩にも落ちていたのだ。

 その日清水さんは、いつものように同級生のたけちゃんと紙鉄砲で遊んでいた。ついさっきまで一緒に遊んでいたたけちゃんの家が一家全滅した。それが我が家の隣の長谷川さん一家のことだったのだ。そして、庭に落ちていた人形だと思ったのは、隣の小さな子供だったという話も祖母から聞いている。たけちゃんのことを語る清水さんの顔が悔しさで一杯だった。

悲しく悲惨なことである。戦争は絶対にしてはいけない。平和を願い、戦争というものを忘れず、語り伝えていく大切さをしみじみと思った。

 もしも、爆弾が少しずれていたら、我が家が一家全滅だったかもしれない。当時、父は18歳。まだ戦争には行っていなかった。そう考えると私の存在もない。私がこの世に生まれることもなかったに違いない。あらためて自分が生かされてここに生きていることは、本当に感謝することなのだとつくづく感じる。

父をよく知る清水さんにお会いした日は、偶然にも亡き父の誕生日だった。私に伝えたかった父からのメッセージを受け取ったような気がした。