行徳に生きた志村はなさんの話をお伝えしたい。

 はなさんは、明治26年に3人姉妹の末っ子として浅草で生まれた。3歳の頃、父親が亡くなったため、父親の実家に1人だけ預けられた。「あたしゃ、親に早くうっちゃられちゃってね」と語っているのは、当時米寿を迎えたはなさんだ。昔語りの始まりである。

実家の祖母は、手のかかる小さい孫がじゃまにされるのを、かわいそうで見ていられなかった。それで、子どもを亡くしている田尻の小川家に、はなさんを養女に出した。はなさんは、物心がつくまでずっと自分の親だと思っていた。しかし、ある人に養女だったことを教えられたという。その時のショックはどんなに大きかったことだろう。小さな胸がつぶれそうだったに違いない。自分だったら、その現実をどのように受け止めただろうか。

賢いはなさんは気持ちを切り替えた。養親のいう通りにしていれば大事にしてくれるだろうと、言われる通りどこへでも奉公に行った。そして、田植えが始まり農家が忙しくなると、「はあ、忙しくってしょんねえからな、ひまもらってこう」と呼び戻された。これらの経験の数々が後ではなさんの助けになるのである。

実は、結婚も奉公に行っている間に決められた。相手も知らないところへ嫁にやる手はずを養親が整えてしまう。こういう話が昔はよくあったと聞く。当時は当たり前の時代だったかもしれないが、せめて自分の親なら言えたことも、養親には何も言えなかったそうだ。どんなに不安なことだったかと思う。辛い思いは自分の心の中にぐっとしまいこんだのだろう。

大正4年12月、行徳町[1]の志村家に23歳で嫁いだが、夫は翌年の8月に亡くなった。そのときすでに身ごもっていて、長女が生まれた。子どもを置いて出ようかとも考えたが、自分が経験した親に捨てられた子どもの辛さを、自分の子どもにはさせたくなかった。そして、どんなことがあっても、子どもをよそにはやらないという思いが強まった。子どものことを思う強い母親の気持ちが思いとどまらせたのだろう。その年の12月、夫の弟と再婚。3男五女をもうけるが、再婚した夫も45歳で他界した。その後、女手一つで子どもを育てあげた。

 はなさんは「大正にゃ、いろんな災難があってよぉ、大津波だのねぇ、コレラだの、そんなのみんなね」と言う。大正6年の大津波と言われている高潮災害、大正11年の関東大地震、幾つかの東京の大火などがあった。この頃はコレラなどの感染症も流行した。はなさんの夫もコレラで亡くなったようである。また後に、疱瘡で赤ちゃんを1人亡くしている。小さいので天然痘の予防接種はしていなかったそうである。

はなさんは苦労の連続で、本当に辛い思いをしているが、何があってもけっして負けずに生きている。親の面倒をみる、子どもを育てるという使命感をしっかりと持っていたからこそ乗り越えて生きてきたのだろう。

 田尻時代に俵を編むことを覚え、「はなさんの編んだ俵だったら…」と信頼され、あちらこちらから仕事を頼まれるようになった。嫁に来る前の百姓の経験とその仕事ぶりが、はなさんの人生に大きな力となったのだと思う。百姓は百の仕事をこなすから百姓というそうである。その一つ一つの野良仕事が丁寧で手早く、何をやっても上手で、はなさんの仕事を周りの者が立ち止まって見とれてしまったと言われるほど、すばらしい仕事ぶりだったに違いない。

晩年は、長い間の野良仕事のためか腰が二重に曲がってしまったが、苦労を感じさせない穏やかで優しいおばあちゃんだったそうである。明治生まれの強い精神力と子どもに対する深い慈愛に満ちた志村はなさんは、子、孫、曾孫と共に幸せに暮らし、昭和61年1月10日、91歳で逝去され。合掌。


[1]行徳町:かつての千葉県東葛飾郡行徳町で、昭和30年3月31日に市川市に編入合併した。(参照:市川市公式ウエブサイト)志村家は現在の市川市本塩にある。

引用・参考文献:『季刊 行徳昔語り』 第11号「特集:志村はなの昔語りーそのおい立ちと今までのこと―」(行徳昔話の会・昭和57年5月)