江戸時代に徳川家康によって奨励され、保護されてきた行徳の塩田は、大正6年9月30日に襲った大津波(高潮)によって全滅した。お年寄りたちが語った大津波の体験は、『ぎょうとく昔語り』に記録されている。

市川市本塩生まれの浅沼仙太郎さん(明治42年生まれ)は、9つのときに体験したという。津波が来るというので、大人たちは稲刈り後、田んぼにかけてある稲たばをはずしに行った。風向きが変わって、危ないから逃げてきたら、すぐ津波がきた。満潮と風が一緒になってやってきたのだ。土手を越して、ボッカ、ボッカとわき上がって海が高くなってきた。

道の向こうの家は、押入れの中段まで水が来たが、家の周りは地盤が低いから、天井ばりまで水がついた。はじめは小さい子を臼に入れて、大人がおさえていたけれど、それも水かさが増して危なくなり、天井に上がって、梁にまたがり一晩中しのいだ。波がくるとパッタパッタと天井ばりをたたいた。

あの頃は電気がなくてランプだけだった。暗いのにはなれていたけれど、ランプもつけなかった。潮は半日経てば引く。ようやく引きはじめたのは明るくなってからだ。ヤヘエ(屋号)の家のむこうは海の方から田んぼばかりだったから、家は離れたユウヤ(屋号)の井戸のあったところまでそっくり流された。この辺で流されたのはヤヘエの家一軒だけだった。

浦安からは屋根に乗って、「助けてくれ、助けてくれ」と言って、八幡の方へ流されていった人もいた。皆それぞれが大変で、助けようにも助けられなかった。

水が引いて稲の流れ寄った家は、稲を拾って得した。要領のいいのは、あとから稲たばをいっぱい拾った。この大津波の後、天井を丈夫にして乗れるようにした。

また、9月の十五夜の晩には、縁側の柱にススキをしばり、1升ますに団子を15で山盛りになるようにして、サトイモやクリやカキなどを供えた。その前の晩に作った団子で、飢えをしのいだから覚えているという人もいるから、その大津波は十五夜の晩の明け方、9月30日のことである。

塩場(しょば)の人は塩をとかしてはいけないと、片付けているうちに水がきたそうだ。かま屋のうえに乗った人が、くるくる回りながら流され、中山の鉄道の方でとまったという。

わが家も塩田を持っていた。当時、私の曾祖父榮三郎は45歳、曾祖母とめは40歳であった。曾祖母は、7人目の子を9月22日に出産した。大津波8日前のことである。生まれたばかりの子を抱えて、曾祖母はどんなに恐ろしかったことだろう。

曾祖父は大津波で全滅した塩田に立ったとき、何を思ったのだろうか。自然の猛威とはいえ、長い間続けてきた塩田が全くできなくなるという悔しい思いが伝わってくる。塩田で働く塩場師たちのこれからの生活を案じていたのかもしれない。

塩田はやがて蓮田に変わり、新しいその他の作物を生み出していった。

どんな時にでも一所懸命に働いて、力強く生き抜いていく力と勇気を私たちに伝えてくれる。肖像画のなかの曾祖父のかっぷくのよい面影が浮かんでくる。

実は母方の曾祖母も塩業を営む家から、茨城県を流れる利根川のほとりの家に嫁いだ。塩に関わる家に生まれためぐり逢いに感謝し、歴史ある行徳の塩について大切に語り伝えていきたい。

引用・参考文献:『ぎょうとく昔語り 行徳昔話の会・2000年11月15日発行

 『下総行徳塩業史』 (楫西光速)アチックミューゼアム・昭和16年10月30日発行