「行徳昔話の会」が編んだ戦後の引き揚げ体験談の冊子がある。語り手は市川市本塩生まれの萩原百合子さん(大正11年~平成17年)だ。

 百合子さんは、昭和16年に20歳で結婚した。ご主人が軍人であったため、朝鮮の平壌へ行き、官舎で暮らしていた。昭和20年8月15日の朝七時に、ご主人から終戦のことを聞かされたという。

 終戦後、数日して南朝鮮へ行くので準備をするよう隊長より命令があったが、状況を見ることになる。軍人の家族は分遺隊の独身寮に入り、引き揚げを心待ちにしながら半年いた。終戦時、ソ連軍は38度線のあたりまで攻めてきていたので、南北の38度線が国境になった。ソ連軍の兵隊は日本人の時計・万年筆・長靴(ちょうか)が欲しくて襲ってくる。そのたび家を出て隣に逃げたりしたが、ピストルを突き付けられたこともあり、生きた心地がしなかったという。

 そのうち独身寮を引き払うことになり、三港という港の倉庫に移動した。倉庫は2つあって、1つの倉庫には500人くらい入り、隙間がない状態であった。3歳の娘と2人、(むしろ)1枚が親子の寝床だった。倉庫は窓もなく、大きな入り口があるだけで、寝ているうちに、コンクリートと人間の体温で湿気が出る。この生活が続くと、だんだん病人が出てくる。一番早く亡くなるのが老人と子どもで、毎日のように4人も5人も亡くなっていく。何とも悲惨なことであった。

 倉庫では麻疹(はしか)とジフテリアが流行した。娘も麻疹になった。この子を助けて日本へ帰りたい。娘を背負って思い切って病院に駆け込んだ。そこには日本人の軍医さんと看護婦さんがいた。麻疹はよくなっていたが、ジフテリアにもかかっていた。病院にはジフテリアの血清が1本しか残っていなかった。子どもは半分ずつだ。運よく次の日にジフテリアで入院してきた子どもがいて、無事に血清注射をしてもらい、21日間隔離されたが2人とも助かった。病院に3か月ほどいて、身体がすっかり良くなり、倉庫に帰ってきたときには、ほとんどの子どもたちが亡くなっていた。憲兵隊の10数家族には27人子どもがいたが、日本に帰って来たのは4人だけであったという。

北朝鮮では、公然の引き揚げ命令はない。野宿して草むらの上に直接寝ることを考え、せめて2人の身体でも綿の上にと、倉庫を出るときに薄い布団を縫ったという。倉庫から南へ南へ下がろうと皆で歩き出した。1梯団250人くらい。山を越しては、水のある所を求め、ご飯を炊いた。夜露に濡れた足はむくんですぐには歩き出せない。リュックサックの下に布団を入れ、両脇に穴をあけ娘を入れて、両足を出させる。自分の一番好きだった着物をほどいて、おぶいひもを作る。リュックサックの上からおぶいひもを掛けると軽いのである。しかし、どうしても自分の身体で歩かなければ南へは行かれない。重い足をひきずって歩いた。落伍したらみんなにおいて行かれるという気持ちがあった。

野宿しながら9日目に38度線にたどり着く。国境には、片方は南朝鮮の兵隊が警備して、北朝鮮にはソ連の兵隊が銃を持って警備しているから、越境するのが分かったら銃殺である。1人でも捕まったときは全員銃殺されるので、団長から手荷物を捨てるように命令された。38度線というのは、その頃10センチ角の杭が何本か立っているだけで、それをまたげば南朝鮮だ。午後3時頃、両方の警備兵が見えないときがあったので、一斉に駆け足で渡ったそうである。全員で250人くらい。命が繋がった瞬間であった。

南朝鮮に渡ってからは、米軍の食料支給があり、おなかをすかせることもなく、貨物列車で釜山まで移動できた。そして、1週間から10日くらい待って釜山港から引き揚げ船に乗り、やっと福岡県の門司港に入港した。集団で引き揚げ寮に入って2時間したら、東京行きの引き揚げ列車が入ったので、それに飛び乗った。列車には外が見える窓があり、娘は喜んだ。

品川あたりに来たときに、着の身着のままであったので、リュックサックの底に隠しておいたものに着替えたそうだ。服装は、男物のセルの着物で洋服式の上下を縫って、下はズボンに仕立てた。靴は盗まれたので、門司でもらった焼き下駄をはいた。娘には本塩にいた伯母のお召の着物で胸当のついたズボンを縫って、自分が編んだセーターを着せた。

行徳に帰り着いたのは、終戦から1年と2か月経った10月20日のお昼頃であった。百合子さんは24歳、娘さんは4歳になっていた。軍人だったご主人はシベリア抑留の途中、病死したということを戻ってきてから知らされた。

本塩の家は空襲で全焼し、留守を頼んでいた伯母も半年前に病死していた。こんなところへ帰ってこなければよかった。苦労するなら誰も知らないところで苦労したいと瞬間思ったが、娘を連れて帰れたことが一番の宝だと思いなおしたそうだ。

長い苦しい経験をした萩原百合子さんの「戦後がわれわれの戦争だった」という言葉が心にしみてくる。戦争というものの恐ろしさ、悲惨さを引き揚げの体験によって教えられたのだ。行徳に帰ってからは和裁の先生をして、平成17年に83歳で亡くなった。もし生きていたら、現在のロシアのウクライナ侵攻に「戦争はしてはいけない」と声を大にして言ったことだろう。1日も早くウクライナに平和が来ることを祈る。

引用・参考文献:『行徳昔語り 第37号別冊「引き揚げ体験を語る 萩原百合子」(行徳昔話の会・昭和63年11月1日発行)