行徳小学校は、市川市でも歴史の古い小学校である。明治6(1873)年に東葛飾郡行徳町にある徳願寺の庫裡を仮校舎として開校した。明治18(1885)年、行徳4丁目の宿屋「山田屋」を購入し、作り直して移転した。翌年、行徳尋常小学校と改称、その後、行徳高等小学校が設立され、明治27(1894)年には行徳尋常高等小学校と改称する。大正6(1917)年の大津波(高潮)により校舎が損壊し、老朽化や児童の増加もあり、2年後に本行徳12番に新校舎が建設された。当時としては珍しい中庭を囲んだます型の2階建て校舎である。

行徳郷土文化懇話会会長の田中愛子さんに、戦中・戦後の小学校について伺った。昭和14(1939)年、第2次世界大戦が勃発し、2年後の「国民学校令」により、行徳国民学校となり、軍国主義教育の色合いの濃いものになっていった。愛子さんは、昭和20(1945)年の4月に行徳国民学校に入学した。前年の秋頃からB29戦闘機が行徳上空を飛んで東京へ爆撃に行くようになった。行徳は通り道になっていたため、東京に焼夷弾・爆弾を落とし、帰りがけに残りの爆弾を何回か落としていくので、行徳地区も空襲の被害にあった。

その頃、小学校の講堂や教室には兵隊が寝泊まりしていて、校庭では軍馬も飼われていた。それで、教室が足りないため、午前と午後に授業は分けられ、また、いくつかのお寺に分かれて勉強を続けた。空襲警報が鳴るととても怖かった。防空頭巾を被り急いで家に帰る。戦時下で7月には夏休みに入り、8月15日に終戦を迎えた。

戦争が終わっても、空襲で壊れた校舎の窓ガラスはそのまま、冬になってもストーブのない状況だった。その上、教科書が足りなくて、上級生の教科書を下げてもらった。4、5人で1冊の教科書を使うこともあった。先生が謄写版で印刷した教材を切って、親がとじてくれたこともある。鉛筆は自分で片刃のナイフで削ったが、どこを削ってもすぐポッキンと折れてしまう。ノートはザラザラしたわら半紙であった。ものが不足していて、食べるものや衣類も十分なかった時代である。冬以外は、ほとんどがはだしで、靴下と靴を履いたのはだいぶ後になってからである。足袋・下駄やわらぞうりの児童もいた。つぎあての服は当たり前で、母親が縫ったものも多かったという。

 終戦直後、9月から授業は始まったが、連合軍総司令部(GHQ)より、国の体制を民主化していくため、教科書にも指令が出た。従来の教科書の内容のうち、軍事的色彩が強い部分や極端な国家主義的箇所を削除するために、児童の手で墨を塗ったため、「墨塗りの教科書」と呼ばれていた。

 昭和21(1946)年には、アメリカの援助で脱脂粉乳とみそ汁、時々コッペパンやジャムが出た。生まれて初めてコンビーフも食べた。脱脂粉乳とは牛乳から脂肪分を遠心分離した残りの液体(脱脂乳)を乾燥し、保存がきくように粉末にしたものである。戦争とは恐ろしいもので、食糧事情が悪化すると児童の身長や体重が急激に落ちてしまう。児童の体位向上には、動物性たんぱく質が必要で、小麦ではなく脱脂粉乳が選ばれた。しかし、脱脂粉乳は不人気で飲めない児童がたくさんいた。給食室が建設され、給食が始まったのは、昭和34(1959)年5月である。 

 また、学校では年に一度くらい、伊勢宿にあった寿館(ことぶきかん)で「孫悟空」や「金語楼の動物園」などの映画を観た。ナトコ映画が、夜の校庭で上映されることもあった。ナトコ映画とは、ナショナル・カンパニー製映写機の略で、GHQの占領政策の一環として、民間情報教育局の教育映画が、全国各地、映画館の無い地方でも盛んに上映会が開催された。4、5年生の時には「マッチ売りの少女」の人形劇を初めて観た。行徳に生まれ育ち、身を持って戦中・戦後を体験した愛子さんに知らなかった行徳のことをいろいろと聞くことができた。

なお、行徳国民学校は、昭和22(1947)年、行徳町立行徳小学校と改称する。その後、校舎の老朽化に伴い、昭和29(1954)年に現在の富浜に2棟の校舎が完成し、3度目の移転をした。昭和30(1955)年には、行徳町が市川市と合併し、市川市立行徳小学校となる。

そして、令和5(2023)年、2月16日に創立150周年を迎えた。卒業生は延べ1万人を超えたそうである。母校行徳小学校の長い歴史の中で悲惨な戦争の時代があったことを忘れてはならない。次の世代に伝えていきたいことである。

〈参考資料〉

『教科書でみる近現代日本の教育』海後宗臣・仲新・寺﨑昌男著・1999年5月12日第2版第一刷発行

『図説教育の歴史』 横須賀薫・千葉透・油谷満夫著・2008年10月30日初版発行

『給食の歴史』藤原辰史著・2019年1月25日第2刷発行  『市川市立行徳小学校創立150周年記念誌』市川市立行徳小学校150周年記念事業実行委員会 ・2023年2月16日発行