お盆に主人の実家のある宇都宮へ行く途中、群馬県みどり市東町にある富弘美術館へ寄ることになった。

5月中旬、中学校のクラスメイトだった取次玲子さんからいただいた手紙に、1枚の絵はがきが同封されていた。この絵はがきが星野富弘さんの詩と花の絵だった。取次さんは、昨年の秋に富弘美術館を訪れたのだと言う。私はこの絵はがきに心惹かれ、フォトフレームに入れて飾った。そして、どうしても一度富弘美術館へ行ってみたいと思うようになった。 

富弘美術館へは、宇都宮から車で日光を越えて約1時間20分で行けることがわかった。そこで、主人に実家へ行ったときに連れて行ってほしいと話していたが、主人は行きに富弘美術館へ寄るという計画を立ててくれた。

朝5時に自宅を出発し、私たちはカーナビに導かれながら、群馬県みどり市大間々町へと入った。順調に来てよかったと思っていたが、カーナビの通りに渡良瀬川の橋を渡ったため、山道に入ってしまった。

実家の宇都宮市今里町にある羽黒山(はぐろさん)は約500mの山であるが、ここは山の標高がかなり高いため、山道も半端ではなかった。川の向こうには「わたらせ渓谷鐡道」が見える。どんどん山道は狭くなり、ところどころに崖崩れの危険を表す標識や予防のためのネットまで目に入ってきた。

向こうから車が来たら、バックなどできない。直ぐ脇は崖下だ。本当だったら向こうに見える「東国文化歴史街道」を走っているはずだったのにと、どきどきした。このカーブの多い山道は、一体どこまで続くのだろうかと不安に思った。長い時間が経ったように思えたとき、舗装道路に出た。少し広くなったところに一台の赤い車が止まっていた。キノコ採りに来たのだろう。山に入ったらしく誰も乗ってはいなかった。

でも、私たちはこの車を見てほっとした。車が入ってきたということは、出られることが確認できたからだ。横に乗っている私よりも車を運転していた主人は、もっと大変な思いをして、ハンドルを握っていた。後で、山の木々が崖下の視界を隠してくれていたから、運転できたとしみじみ言っていた。私たちには思いがけない経験と二人だけの思い出が残った。

 しかし、この後、山々のすそ野に広がった草木湖のすてきな風景を目にすることができた。あの山道を通り過ぎてきたからこそ、また感慨深いものがあったのだと思う。

そして、9時を少しすぎた頃、ようやく富弘美術館に着いた。9時からの開館だったため、人が何人かいた。美術館の外にはたくさんの花が咲いていて、私はその花を見ただけでも心が癒された。

 星野富弘さんは、群馬大学教育学部体育学科を卒業後、中学校の教諭になるが、クラブ活動の指導中に頚椎を損傷して、首から下が動かなくなった。9年もの長い入院生活の中で口に筆をはさんで、文字や絵を描きはじめたそうだ。

 美術館の入り口を入ったところのロビーの壁には、富弘さんが書きはじめた最初の頃の文字が拡大して印刷されていた。その文字の震えが当時の苦悩をそのまま表していた。展示室は四角い部屋ではなく、壁が丸くなっていて曲線を描いている。それに沿って詩と絵が展示されていた。主人は、きっと上から見たら展示室が「花」を表すように見えるだろうと感じたそうだ。

私たちは、ゆっくりと1枚ずつ見ていった。口にくわえた絵筆から、どうしてこんな繊細な線が書けるのだろうか。こんなにやさしい色を染めて花の絵を描くことができるのだろうかと思った。

病院のベッドで来る日も来る日も過去への後悔を繰り返し、なぜ器械体操をやったのだろう、これさえしなければ自分はこんなことにはならなかった。遂に過去を遡り、生まれてこなければよかったと苦悩し続けた富弘さんは、お母さんの献身的な介護と憶えていたいくつかの詩人の言葉と信仰が救い出してくれたと本に綴っている。そして口で書いた「文字と絵」に出会ったのだった。

入院中、お母さんは富弘さんが人工呼吸器をつけ、高熱に苦しんでいたとき、「わが身を切り刻んででも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」と思ったそうだ。富弘さんは、神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら、お母さんの肩をたたかせてもらおうということを詩にしている。どんなことよりもお母さんにしてあげたいという富弘さんの強い感謝の気持ちに心打たれた。

後に結婚した奥様の言葉から「結婚指輪はいらないといった」で始まる詩。顔を洗うときにきずつけないように、体を持ち上げるとき、痛くないようにと結婚指輪はいらないと言った奥様への富弘さんの深い感謝と愛情の詩だった。

数々の素直な言葉がそのまま私の心に沁みてくる。そして、詩を読んでいくうちに涙が溢れそうになった。言葉の持つすばらしい力と生きる大切さをしみじみと思った。

あの山道を通って、富弘美術館は私の心の道につながった。