今、「いちかわ新聞」に「じゅえむばなしを追う」が連載されている。「じゅえむばなし」とは、印内(いんね)村(現・船橋市)に生まれたと語り伝えられている重右衛門(じゅえむ)の話で、「印内のじゅえむ」とよばれているとんち話である。

 じゅえむばなしの語り手の1人が、行徳に暮らした明治生まれの志村はなさんだ。編者の米屋陽一氏から昨年8月に志村はなさんに関する問い合わせをいただいたことが、はなさんを初めて知ったきっかけであった。米屋氏によると、じゅえむ話を聴いた中で、はなさんは最高齢の人だったという。

 さて、調べているうちにわかったはなさんの暮らしの一端をお伝えしたい。

実は、私の曾祖母の実家で、はなさんの長男・富蔵さんご夫妻の仲人をしたという話を聴いた。こんな身近なところで、はなさんの話が出たことにびっくりした。その実家では毎年暮れに2俵の餅をついたが、はなさんと富蔵さんは長い間、毎年朝早くから餅つきの手伝いにきてくれた。かまどで蒸した餅米を、台所の土間で臼と杵で餅をつく息の合った親子の様子が目に浮かぶようだ。はなさんの餅を返す手がさぞ上手だったろうと想像すると、とてもうれしい。

 志村家では、親戚が集まって餅をつく。お供え餅、のし餅、かき餅などを作る。餅つき

に集まった子どもたちは、つきたての餅をあんころ餅やきなこ餅、醤油に付けたりして食

べる。かき餅は固くならないうちに切って、風を当てないように干す。かき餅が出来上が

ると、はなさんはかき餅を七輪で焼いてくれる。孫たちは、周りを囲んで、お椀にお湯を

入れ、醤油、鰹節を入れて待つ。焼きあがるのが待ち遠しくもあり、はなさんが焼いた餅

をじゅわっと入れて食べるのが楽しみだったという。

当時は2月の終わりから3月の初め頃に、江戸川の水門から流れている水路 を止めて、町中でそうじをする堰ざらいをすることがあった。すると、小さな鮒が取れて富蔵さんが持って帰ると、はなさんは七輪に網を置いて焼き、それを干して大豆と一緒にほろほろになるまで根気よく煮てくれたそうだ。 

ある時は、養親を世話するために、孫を連れて、行徳橋の向こうの北詰めでバスを降

り、土手沿いに歩いて田尻の実家へ行った。また、喘息で幼稚園を休みがちだった末の孫のためにお湯を沸かし、看病し寄り添ったはなさん。飼っていた文鳥を部屋の中に放して孫と遊んでくれたこともあったという。そして、娘の出産の世話に行ったりと、いつも誰かのために尽くしたはなさんの姿が見えてくる。

 そんなはなさんの愛読書がドリトル先生シリーズで、大好きでよく読んでいたそうだ。動物たちと話ができるドリトル先生の思いがけない事件や冒険にワクワク、ドキドキしたであろうはなさんがかわいらしく思える。

はなさんは、「自由に自分の好きな本を読み、好きなテレビを見て、訪ねてくる子どもたちや近所の人たちと話をすることで私は幸せだ」と言っていたそうだ。昔は苦労したけれど、これが老後のはなさんにとっての本当の幸せだったのだろう。

そして、はなさんを知ったことで、改めて私の父と富蔵さんが親しかったことや、私の同級生に、はなさんの孫たちがいたことが初めてわかり、そのことから、はなさんの曾孫たちと息子が同級生であったことに気がついた。また、昨年の8月の終わりに、我が家に梨を持ってきてくれた小さな女の子がはなさんの玄孫にあたることがわかり、この縁の不思議さに驚き、感動した。

この度、はなさんのことを調べているうちに生きていた当時がよみがえってきた。これからも私の生まれ育った地域と人のつながりを大切にしていきたいと思っている。

 参考文献:「いちかわ新聞」米屋陽一・編「じゅえむばなしを追う」