<神輿づくり>
行徳は神輿の町と言われている。神輿はどのように作られるのだろうか。詳しいことが知りたくて、本塩にある中台神輿製作所社長の中台洋さんに伺う。
行徳は幕府の直轄領であり、現在も徳川家康が通った権現道が残っている歴史のある町である。行徳には、家康が奨励した塩田があったため、塩と一緒に神輿を船で運んだという立地条件があり、また「行徳千軒、寺百軒」と言われるほど寺の多い町に、宮大工としての職人が多くいたことなどから神輿の産地になっていく。昔から浅草や神田などでは太鼓は作っていたが、神輿は行徳で作って運んだ。
中台神輿製作所では、神輿は要望に応えて作る神輿もあるが、代々伝わる神輿の型があり、基本形や作り方も変えていない。神輿の修復では、行徳五ヶ町大祭の神輿は、昭和46年に修理し、その後40年ぶりに6年前に行っている。神輿の房は、前に取り換えていたので変えなかったが、屋根を張り替えて丈夫にし、塗りも行った。
神輿づくりは、専門職の集合体で出来上がるもので、普通は外注をして作っているが、中台神輿製作所には、木彫り職人、飾り金具職人、塗職人などそれぞれ専門の職人がいて、すべての工程が行える日本でもただ一つしかない神輿製作所である。神輿は、本体にとても手間のかかるものだが、神輿の上にいくほど難しい。大きさによっても違うが、神輿の工期は約8カ月から1年はかかる。近年では、台湾の寺院から神輿の製作依頼があり、出来上がった神輿をコンテナに乗せて船で送り、奉納している。
さて、実際に案内していただきながら、神輿作りの工程について説明を受ける。神輿の材木は、特に産地にはこだわらず、木質とすじをみきわめ、10年以上乾燥させて枯らしたものを使う。まず、神輿づくりの最初の工程は、その10年たった木のどの場所がどの部分に適しているか、見極めをする材料の選定から始まる。そして、各部分の寸法に切る木取りから、神輿の各部分を作る木地加工をして仮組みをする。
次に仮組みを終えた神輿を一度解体し、硬く丈夫な下地を作るため、塗りと水研きを繰り返し、漆塗りの下塗りをして乾燥させる。次の工程では、中塗りして乾燥した部分を水研きして、上塗りの漆を塗り、ほこりが付かないようにしなければならない。そのためには乾燥室で乾燥させる。これには細心の注意が必要である。
飾り金具加工は、丁寧に飾り金具の型紙を型取りし、型紙に合わせ、柄を刻んで金メッキをする。また、彫師によって木に彫刻が施される。漆塗りを終えた後、金箔を張り付ける金箔押しをする。場所は、金箔が飛ばないように風が入らない建物の奥の囲まれたところで行う。そしてすべての工程が終わった後、飾り金具を取り付けて組み立て、神輿の完成となる。神輿を作り上げる工程を知り、一つひとつに愛情を注いでいる職人魂を感じる。
最後に社長の中台さんから、神輿を作る喜びについては、皆さんから感謝されること、そして、神輿は個人のものではなく、町の象徴として手掛けさせていただくことにあると伺うことができた。
<神輿を取り巻くご縁>
後日、2人の飾り金具職人とお話する機会があり、神輿作りのご苦労などを伺う。細かい仕事はもとより、神輿のことで覚えなければならないことがたくさんある。神輿職人になったのは父親が神輿職人で、小さい頃から父親の仕事を見てきたから、当然のようにこの職業を選んだ。
実は、この2人は、東日本大震災の後、福島からこの製作所に修行に来ている伊藤さんご兄弟で、祖父は神田で神輿を作り、代々神輿づくりの職人である。そして、4人兄弟なのだが、次男だけが違う職業で、あとの3人が神輿職人になる。もう1人、3男の智範さんが前から中台神輿製作所に修行に来ていて、震災後に長男の和仁さんと4男の大伸さんも来ている。
震災の年に行徳五ヶ町大祭がNHKのニュースで放映されたことがある。祭りには、神輿を町会から町会へ引き渡す「白丁」という役目があり、何回もDVDを見ていた私は、その役をした方が、震災後、福島からきていた大伸さんだったことを思い出す。早く土地になれ、仲間に入れるよう「白丁」をやることを社長の中台さんが勧めたのだ。直接、大伸さんとお話しできたことがとてもうれしい。
智範さんは、奥の部屋で御宮の図面を引いている。これらは、コンピュータではじき出した計算ではできないもので、すべて実寸でやる。小さい御宮は、ある程度の広さでも大丈夫だが、大きな御宮になると体育館のようなところで図面を引くこともあると聞いてびっくりする。
はるか昔から脈々と流れるさまざまな職人の技の結集、そして熱い思いが繋がって、一つになる、それが神輿づくりなのだ。細かい仕事の積み重ねと達成感、さらにものづくりというものの感動をいただく。
そしてもう一つ、私には、松丸忠雄さんという82歳で現役の神輿職人との出会いがある。松丸さんのお孫さんが千葉商科大学付属高校野球部のピッチャーである。私の大学の同期であり、野球部の染谷希一監督が、野球の応援に来た松丸さんに行徳に住んでいる千葉商科大学の職員である私のことを話したことがきっかけだ。また、私は、松丸さんを30年前から知っている知人の南一夫さんから、松丸さんが中台神輿製作所で働いていることを知らされる。ここで繋がる。
私は、ぜひお会いしたいという気持ちになり、松丸さんに会いにいく。ちょうど請け負った神輿の修復に取り掛かるところである。以前は、松丸工務店をやっていて、松丸さんの菩提寺でもある妙覚寺の客殿なども手がけた宮大工である。その後、中台神輿製作所に来て10数年が経つ。
その松丸さんは、何と20数年前に私の家の隣家を建てていた大工の棟梁だったのだ。建てているときに、下から落ちないようにという声がかかる。誰かと下をみたら、隣の親父さんだったという。それは私の父の声だ。まさか亡くなった父の話が出るなんて思ってもいなかった。懐かしい父の声が聴こえてきたようで本当にうれしい。話していると、その他にもいろいろと繋がる話が出てくる。それは、私にとって見えないものが見えてくるという驚きである。お会いしたことは、偶然ではなく必然のような気がする。松丸さんには、これからもお元気で神輿を作り続けていただきたいと思う。
最後にご協力いただいた皆様に感謝するとともに、「神輿」を通じて、知る喜びが広がっていくその先々で、見えてくる人と人との縁の不思議さを心に刻み、これからも人との結びつきを大切に育んでいきたい。そして、歴史ある「神輿づくり」が連綿と受け継がれ、町の人々をますます元気にしてくれることを心から願う。