私の地元、行徳には180年続く3年に一度行われる行徳五ヶ町大祭がある。行徳一丁目、二丁目、三丁目、四丁目、そして、本塩(旧塩焼町)の五ヶ町を練り歩く神輿があり、重さが約500キロもある大きな立派な神輿だ。
夜明け前、触れ太鼓そして行徳神明神社の御霊入れから始まって、各町内を渡った神輿がいよいよ本塩に入るのは夕暮れ時になる。「ワッショイ、ワッショイ」「ワッショイ、ワッショイ」「まわれ、まわれ」「ヨイ、ヨイ、ヨーイ」ああ、懐かしい声が聞こえてくる。この神輿の揉み方は行徳独特のものである。手首に白いさらしを巻いた白装束の24人のもみ手たちが、神輿を片手で高くあげたり、神輿を投げあげて、手を叩き受けとめたり、そして地面すれすれで神輿をまわす変わった揉み方で、それぞれ「さし」、「放り受け」、「地すり」と呼ばれる。これらは、天に近く、地に近く、五穀豊穣を願って神様に祈りをささげるためと言われている。
そして、神輿の前をお囃子がいく。祭りを笛や太鼓や鉦で盛り上げてくれる。実は、このお囃子については、元自治会長に話を聞いたところ、本塩には30数年前までお囃子があったが、その後消滅していたそうだ。しかし、6年前に自治会長のお囃子を昔のように復活させたいという思いと、お囃子の体制について説明したところ、下妙典の3人の方々がお囃子の指導をしてくださることになり、みんなの協力のもと、ついに「本塩囃子保存会」を立ち上げることができたそうである。現在では大人、子供合わせて20名近くが活動しているとうれしそうに話してくれた。
さて、祭りのクライマックスは、本塩の豊受神社に神輿が宮入するところだ。もっともっと揉んでいたいもみ手たちは、神輿を神社に納めようとする音頭取りに頭を叩かれながらも何回も神輿を入れないように抵抗する。この頭を叩かれることを「神様にご褒美をもらった」と言うことを初めて聞いた。叩かれても笑いながら受けるのだそうである。「入れろ」「出ろ」という声が錯綜する。神輿がにげていくのが面白い。神輿の稲穂をくわえた鳳凰が鳥居をくぐるかどうか、この一瞬が本当にわくわくするのだ。
この神輿は男しか担げない神輿である。
亡くなった私の父も神輿を担いだ。今でもその力強い姿が目に焼き付いている。私が男に生まれていたら、きっと神輿を担いだだろう。ずっとそう思って育ってきた。そして、今年初めて息子が神輿を担いだ。怪我をしないかと心配する反面、息子が担いでくれたことが私にはとてもうれしかった。息子は神輿を揉んでいるときは精一杯だったと言っていた。決まった人数でやるので、自分が手を抜いたら神輿がかぶってくる。一人ひとりが合わせて全体責任ということだ。ものすごい太刀打ちできないもの、それに向かってどれだけやるかということを感じていたという。
また、祭りには、「白丁」というものがあり、神輿を町会から町会へ引き渡す役目をするものである。3年前には主人が、そして今回は息子も初めてこの役目を経験する。「白丁」の装いは着物の上に白衣を着て、烏帽子を首にかける。私は着付けをし、集合時間に間に合うように送り出した。
息子から、地元の人に遠い親戚だと声をかけられたがどういう親戚なのか、私に教えてほしいと言われた。わが家の屋号は勘三(かんざ)というが、それは、私の曽祖父の代に遡る親戚だということを説明した。あとで息子が自分を基にした簡単な家系図らしきものも書き始めていた。私もわかる範囲で書き足した。息子も祭りの中で、古くからの地元のつながりを肌で感じたようだ。
そして、遠い思い出になるが、祭りを見つめていた私は、お河童頭で赤い袢纏を着て、鈴をつけている。「御祭禮」の提灯が下げられ、ススキが飾られる。これは五ヶ町全体の祭りの迎え方でもある。門の前で、親戚の人たちが集まると必ずみんなで並んで写真を撮った。祭りの思い出は、笛や太鼓や鉦の音とともにこの写真の中に生きている。そして、今でも昔のようにみんなで写真を撮る。わが家で続いていること、これがやっぱりとてもいい。
「ワッショイ」「ワッショイ」力強いこの掛け声が大好きだ。うれしくなってくる。血が騒ぐというのはこういう感じを言うのだろう。行徳に生まれ育った私の奥底にあるものが、何かに揺さぶられ、爆発するように湧き上がってくるのだ。